この光景と出会った瞬間、鳥肌の立つような強い衝撃を覚えました。
峰も、稜線も、そして麓に広がる新緑までも、どれもが空の中の、ある一点を目指している。上に広がる雲までもが、同じ形をして指し示している。
その一点へと誘うかのようにして架かる明神橋に立てば、この山の懐へと吸い込まれていきそう。そのとき僕は何故か、空へと翔る滑走路に立っているような気がした。
どうかしちゃったのか?という冒頭ですが、これがこの時僕が感じた全て。
見る者を気高い姿で圧倒するこの山は、穂高神社奥宮の御神体である明神岳、だそう。というのも、この時は歩くルート以外下調べしないで行ったため、僕には全く先入観などは無かったのです。
でも確実に、僕の感情は何かしらの力に強く揺り動かされた。それは譲れない事実。太古の昔から、この姿を目にした人々は皆、同じようなことを感じていたのでしょう。
自然の中に八百万の神を感じる。神話や伝説など難しい話は僕には分かりませんが、この国の人々が大切に育んできたその気持ちの中にこそ、神様が住んでいる。僕はそう思えてならないのです。
そして僕にも、その感覚が多少なりとも備わっていることが、嬉しいのです。それを確かめたいが為に、こうやって旅を繰り返しているのかもしれません。僕がこの国に生まれて心底良かったと思える瞬間と、こうして出会うことが出来るのだから。
本来ならばすぐ近くにある穂高神社や明神池へも足を延ばしたかったのですが、今回はバスの時間を考え敢え無く断念。でもいいさ。また今度の楽しみにとっておけばいいのだから。
神々しさを感じさせる明神岳に飛び込むように架かる明神橋を渡り切り、梓川の対岸へと移動。ここから下流へと戻ります。
これまで歩いてきた、山のハイキングを楽しめる左岸の歩道とは打って変わり、右岸の歩道は森と水と戯れるような穏やかな雰囲気。明神池から流れてくる清らかで豊富な水量の流れを木道で跨ぎます。この先のコースはこのような木道が断続的に続きます。
木道は湿地や段差を縫い、梓川の支流と着かず離れず進みます。そこあるのは、緑と水と光だけ。太陽がもたらす明るさのグラデーションは、足取りのみならず心まで軽やかにしてくれます。
それでも山の日は短い。まだまだ夕刻前なのに、段々と陽の光が弱まり始めます。それは曇ったからでは無く、高い山々に囲まれたこの地だから。
先ほどまで胸のすくような明るさだったので、ここへ来てこの景色と陽の翳りに、一瞬ギョッとします。でもこれが、自然というものなのでしょう。人にとって都合の良い天気や景色だけではない。その変化があるからこそ、自然は大きくて美しいのです。
弱まりつつある青空を映しつつ、水がうねるように流れるこの姿。水底には水草が作るまだら模様が広がり、美しい中にも潜む妖しさが匂います。
今日一日で、水と空と木々が織り成す表情をどれほど見たことでしょうか。この眺めも、そんな思い出を象る色彩のひとつ。
少しだけ心細い気持ちになりつつ先を進むと、そこには荒々さを感じさせる山容が。穏やかな雰囲気漂う河童橋付近から少し足を延ばすだけで、全く違った表情を見ることが出来る。上高地は本当に表情の豊かな場所。
そしてもう間もなく、河童橋へと帰還。その前にもう一度、この穂高の姿を目に焼き付けます。
大正池から始まった、初めての上高地散策。滞在時間4時間足らずとは思えないほど、存分に味わった濃厚な時間。
前回訪れた時の、川霧に包まれる幻想的な河童橋付近も良かったのですが、今回の大正池から明神池までの散策は決して忘れることのできないものとなりました。
山と緑と水、そして天気の変化によって千変万化するその表情。初夏の緑と水の碧が、この記憶を僕の心へと焼き付けるのでした。
上高地、古くには神垣内。そして僕がこの地で感じたのは、神が興し、神が降りる地なのではないか、ということ。上高地、神興地、神降地。パワースポット云々は抜きにして、この自然の力を素で感じてほしい。
僕が人にこれほどお勧めしたいと思う場所はそうそう無い。それは人それぞれ好みや感じ方の違いがあるだろうから。それでも上高地は、一生に一度は行くべきだ。僕は自信を持って、そう断言します。
また違う顔を見に、違う季節にまた来ます。その時まで、今日のこの日が、僕にとっての最高の上高地。そんな姿を魅せてくれた穂高の自然、本当にありがとうございました。今度逢うその日まで。
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