熱い、熱い体験をさせてくれた弘前ともお別れの時間。憧れであったねぷたは、僕の期待を大きく超え、想像以上に熱く輝く想い出をくれました。
ありがとう、弘前。来年もまたねぷたに会えるように強く願い、この地を去ります。
奥羽本線にのんびり揺られ、青森駅に到着。帰りの新幹線までの時間、この青森の街をのんびりぶらぶらすることに。
青森と言えばやはりこれ。明治以来の輝かしい青函航路の歴史に触れようと、八甲田丸を目指します。
途中には、鉄道連絡船の特徴ともいえる可動橋が残されています。大正以降青函トンネルが開通するまで、幾多もの貨物が、そして車両がこのレールを通り、海峡を越えて北海道へと渡りました。
鮮やかな黄色と白がまぶしい雄姿を眺めつつ、船首へと向かいます。カメラに収まりきらないこの巨体。このボディーが、貨物を、車両を、人々とその想いを載せ、本州と北海道の鉄路を繋ぎ続けました。
青函連絡船と言えばこれしかない。津軽海峡・冬景色の記念碑。
前に立てば、「ジャジャジャジャ~ン、ちゃららら~、ジャジャジャジャ~ン、ちゃららら~」と自動で演奏が始まり、石川さゆりの歌声が響きます。
僕は小さい頃からなぜかこの歌が大好き。季節は夏真っ盛りですが、佇む八甲田丸を眺めながらこの歌を聞けば、荒れ狂う冬の津軽海峡が目に浮かぶよう。
フェリーには到底真似できない力強さと、相反する哀愁、寂寥に溢れる姿。これは廃止されてしまったからなのか、現役当時からなのか。在りし日の姿に思いを馳せざるを得ません。
存分に青函風情に浸ったところで、『メモリアルシップ八甲田丸』にいざ乗船。乗船口では、青函連絡船のマスコットであるイルカがお出迎え。
時代を感じさせる木の扉。長い歴史の間で、数えきれないほどの旅人を受け入れ、そして送り出してきたことでしょう。うちの母もこの扉を通り帰郷していたのだろうか。そんなことを思うと、現役時代に乗れなかったことが悔しくて、悔しくて堪らなくなる。
あと10年早く生まれていれば。鉄道、それも昭和の鉄道好きの僕としては、この感覚をいつも味わわなければなりません。
入り口を入ると、どことなく往時の雰囲気を感じさせるロビーがお出迎え。人々はそれぞれの想いを抱きつつ、各船室へと向かっていたとことでしょう。それが海の向こうへの期待なのか、去る地への未練なのか。そんなことを想像させる切なさもまた、連絡船の魅力のひとつ。
少し前まで、日本には3隻の連絡船が保存・展示されていましたが、東京はお台場にあった羊蹄丸は惜しくも愛媛の地で解体されてしまいました。
その羊蹄丸の中で人気を集めていた「青函ワールド」。古の連絡船船内や青森・函館駅の風景を再現したもので、解体に伴いその一部がこの八甲田丸へと引き取られました。
古き良き青函の風景を再現したこの展示物。ある意味での里帰りを果たし、この青森の地で末永く昔の光景を伝えていくことでしょう。
八甲田丸も摩周丸もそうですが、メモリアルシップの船内は展示スペースとしてほとんど改造されており、現役当時の姿を残す船室をみることはほとんどできません。
そんななか、当時のまま保存され、実際に座ることのできるこの指定グリーン席は貴重なスペース。いかにも国鉄のグリーン、といった重厚な座席に腰を下ろし、窓の外に広がる海を眺めれば、今にもこの船が動き出すかのような錯覚に襲われます。
こちらは寝台個室。中へ入ることはできませんが、現役当時の雰囲気をそのまま詰め込んだかのような濃厚な空気を感じることができます。
国鉄らしい必要十分な内装に、重厚な雰囲気を添える濃紺のソファー。奥には寝台が並び、飾り毛布が旅人を出迎える。無骨な国鉄なりの精一杯のおもてなし。快適だけの今の車両や船には真似のできない、品の良い「重たさ」を感じさせてくれます。
濃密な昭和の船旅の雰囲気を味わい、ブリッジへと向かいます。眼前に広がる青い海を眺め、往時の姿に思いを馳せます。
僕にとっての青函連絡船最大の特徴と言えば、この印象的なファンネル。他の船にはない流麗なデザインが、力強い青函連絡船に華を添えます。
そしてこの八甲田丸のファンネルには、うれしいことにJNRのマークが描かれています。小さい頃にテレビで見た連絡船はまさにこの姿。間近で見ることができ、胸が痛く締め付けられるほどの感動を覚えます。
ファンネルの内部を上り、煙突の上から眺める陸奥の海。青い空に、一層の深い青を湛えて輝く海を、海風を全身に浴びながらただひたすら眺めます。
続いて下部の車両甲板へと向かいます。青函連絡船は、海で寸断された鉄路を繋ぐという使命を受けた、文字通りの鉄道連絡船。この力強い連結器ががっちりと車両を掴み、その使命を担ってきました。
車両甲板にはいくつかの車両が展示されており、当時の雰囲気を垣間見ることができます。北海道のために作られた寒冷地仕様の新車は、このようにして海を渡り、北海道の地へと運ばれていきました。
埋められてしまっていても、なおも存在感を示す船底の鉄路。鈍く輝く二条のレールが、旅客運送だけではない、北海道の生命線としての使命を表すかのよう。青函トンネルができるまで、本州と北海道の大動脈として、その重荷を背負い続けてきました。
時として、牙を剥いたように荒れたという津軽海峡。そんな荒波に負けぬよう車両は金具でがっちりと緊締され、海峡を乗り越えていきました。
青函連絡船の心臓部であるメインのエンジン。この大きなエンジンが、大動脈としての青函航路を支えました。幾多もの旅客を貨物を積み、青函間を4時間を切るスピードで結びました。
貨物や人々を載せて青函を結び続けた連絡船。明治以来80年もの長きに渡り、寡黙に走り続けた青函連絡船。その大きすぎる使命や人々の想いに触れ、胸に熱いものがこみ上げるのでした。
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