八甲田の懐で迎える、静かな朝。目覚めたのはまだ早い5時台でしたが、これもせっかくのいい機会だと思い大浴場へ。早起きし、眠くなったら昼寝をすればいいや。そんな心のゆとりも、連泊ならではの贅沢。
人影もまばらな、千人風呂。巨大な湯屋にはもうもうと湯けむりが立ちこめ、ヒバ造りの浴槽には乳白の恵みが満たされる。朝の静けさの中、身を任せる湯の温もり。鼻をくすぐる硫黄の香りと、ときおり聞こえる天井からの雫の音。酸ヶ湯の朝には、そんな幻想的な時間が流れています。
朝風呂で心身共に乳白に染まり、ごろりとしばしの微睡を愉しんだところで朝食の時間に。早起きは三文の徳、朝風呂は元気の源。会場へと向かう頃にはすっきり目覚め、健康的な空腹感に襲われます。
長いテーブルにずらりと並ぶ、美味しそうなおかずたち。いろいろ目移りしつつ、ご飯のお供を厳選します。青森名産のしじみの佃煮は旨味がぎゅっと凝縮され、ばっけ味噌のほろ苦さが熱々のご飯を誘います。
なすとピーマンの味噌煮は程よい甘辛さと油のコクが懐かしく、しそ巻きや漬物といった名脇役も白いご飯にぴったりの旨さ。そして驚いたのが、ぷつぷつと光る大粒のいくら。筋子派の僕としては若干寂しくも思えますが、朝から味わうこの贅沢に文句を言うはずもありません。
3度目の宿泊となる、今回の滞在。このお宿は、やっぱり朝ごはんがいい。郷土の味を、いい意味で飾り気なく味わわせてくれる。手作り感あるお惣菜とご飯のお供の数々に、結局満腹になるまでご飯をおかわりしてしまいました。
満腹をしばしのごろ寝で落ち着かせたところで、再び千人風呂へとむかいます。普通ならチェックアウト後に人出の落ち着く温泉ですが、さすがは有名な酸ヶ湯、去る宿泊客と入れ替えに大勢の立ち寄り客がやってきます。
夜や朝の荘厳な気配とは一変し、心地よい賑やかさに包まれる広い湯屋。ゲレンデや湯めぐりの話しに混じり耳へと届く、お国のことば。その独特な旋律に、津軽の地へ来てよかったと心底思えてしまうのです。
湯上りに午前のいけない苦みを喉へと流し、お腹もすいたところでお昼ご飯を食べることに。その道中、ロビーに輝くねぶたにご挨拶。千人風呂の入口近くにいるので、滞在中何度もその勇ましさに触れることができます。
酸ヶ湯でのお昼といえば、やっぱりここ。僕に柔らかいそばの旨さを教えてくれた鬼面庵に、今回もお邪魔します。
今回注文したのは、海老天そば。山の宿らしいわらびとともに、大ぶりの海老天が2本載せられています。まずはおつゆをひと口。そうだよ、これだよ。無駄な甘さのない、すっきりとしただしの味。そこに丁度良い塩梅の濃口の深みが加わり、僕的にどストライクな味わい。
おそばはもちろん、箸で切れてしまうような柔らかさ。茹でて置いておくという津軽地方独特の工程により、初対面では面喰ってしまうような唯一無二の食感に仕上がるのだそう。
こちらのおそばには大豆のようなつなぎは入っていないそうですが、十割そばとは思えぬ独特の柔らかさ。伸びているわけでもなく、十割特有のボソッと、ぶつっとでもない。柔らかい口当たりでほろほろと砕けゆく様は、一度経験すると忘れることはないでしょう。
ほろりと旨いそばと共に口へと入る、海老天の衣。潔い旨さのだしをたっぷりと吸った衣は、それだけでも十分立派な具材に。もちろん海老自体も美味しく、ときおり挟むわらびのしゃっきりとした食感もまた堪らない。汗を掻きつつも、最後の一滴までしっかりと味わい尽くします。
あぁ旨かった、大満足。半年ぶりに味わう津軽のそばの柔らかい余韻に浸りつつ、部屋へと戻ります。その途中、目を愉しませてくれるこんもりと積もる雪。今年は記録的に雪がないとはいえ、そこはやっぱり豪雪の地。この冬景色を味わいたいがために、ここまで来たのです。
特にすることも定めず、ただひたすらにのんべんだらりと過ごす連泊の午後。湯屋と午睡の往復に飽きれば、少々早めではあるがこいつの出番。弘前は三浦酒造の豊盃特別純米酒をちびりとやります。
だいぶ前から僕のお気に入りである豊盃。最近では何故だかプレミア感が醸しだされ、現地でも点数制限を見かけるように。一抹の寂しさを感じつつも、そのすっきりとした飲み飽きない旨さに人気が出るのもやっぱり納得。
怠惰、ただひたすらに怠惰。甘美な自堕落という連泊の魅惑を一度知ってしまうと、もう後戻りなどできるはずもない。気付けばあっという間に、この旅最後の夕餉の時間を迎えてしまいます。
会場へと向かうと、今夜も美味しそうな品々がずらりと並びます。まずは右手の鮟肝豆腐から。あん肝のコクと豆腐の柔らかさのいいとこどりを引き立てる、ぽん酢ともみじおろしの爽やかさ。早くも地酒飲み比べセットに手が伸びます。
前菜の鴨ロースは香りよく燻製にされ、海老はキュッと詰まった食感と旨味が楽しめます。笹の葉に包まれるのは舞茸おこわで、もっちりとした中に舞茸の香ばしさが漂います。そして茶色いのは、いかの三升漬け。言わずもがなの、呑兵衛殺しのヤバい奴。
まぐろやたいのお刺身も美味しく、特にたこは北国を感じさせる瑞々しい旨味。うどの酢味噌は香りと酸味が心地よく、サラダに載せられたまぐろの生ハムは凝縮感が地酒にぴったり。そうだこれ、初めて泊まったときにも旨い!って言ったやつだ。
そして今夜のお鍋は、鮭の白煮。北海道でいうところの三平汁のような見た目をしています。程よく煮えたところで、まずはおつゆを。あぁ、沁みる。ちょうど良い塩梅の塩味の中に、鮭の旨味や油がしっかりと染み出ています。
鮭自体もほっくりと柔らかく、身と脂、そして皮と部位ごとの味わいを楽しめます。一緒に煮られた根菜も鮭の旨味を纏い、焼き目を付けられたねぎはとろっとろの甘うまに。風味が濃いのに生臭くない、素人には真似できない郷土の味。
そして奥には、なぜか分厚い鰻のかば焼きが。正直期待もなく食べてみたのですが、意外や意外(失礼!)、きちんとおいしい鰻。〆のご飯に乗せて即席うな丼を作り、結局今夜も満腹になってしまうのでした。
今夜も美味しい夕食に大満足し、後はもうお湯とお酒を味わう時間。風呂上がりにのんびり散策していると、木の香漂う真新しい一画が。以前は湯治棟への入口であった1号館が改築され、自由に使えるきれいなラウンジも。
睨みを利かす、ねぶた絵のステンドグラス。その美しさと体に沁みた硫黄の香りに心絆され、酸ヶ湯での夜はゆったりと、しかし濃密に過ぎゆくのでした。
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