田沢湖畔で爽やかな風に吹かれつつ愉しむ、のんびりとした昼下がり。そんな時間を1時間ほど過ごし、バスの時間に。ここからは乗り慣れた『羽後交通』の乳頭温泉行きに乗車。終点まで30分程で到着します。
終点のバス停の向かい、大釜温泉の横からのびる砂利道へと入り、今宵の宿を目指します。
これまで何度か訪れた乳頭温泉郷の中で、最後まで宿泊や立ち寄りでも訪れたことのなかった孫六温泉。今夜の宿はまさにそこ。まだ見ぬ温泉に思いを馳せ、砂利を踏みしめながら歩みを進めます。
木々に囲まれ静寂に包まれた道を進むと、視界がぱっと開け先達川が姿を現します。この辺りは紅葉はまだまだ。すすきのなびく河原には初秋の風情が漂います。
山あり谷あり、変化に富んだ山道を景色を楽しみながらのんびり歩きます。車があれば黒湯の駐車場から5分程歩けば着ける孫六温泉ですが、バス利用だとこの道しかないため、暗くなる前に到着しないとちょっときついかもしれません。
車も通らない静かな道を進むこと約15分、今宵の宿である『孫六温泉』に到着。乳頭温泉郷の中で一番奥に位置するこの宿は、その佇まいからして一番鄙びた雰囲気を漂わせています。
この宿は電気が通っておらず自家発電。部屋にはテレビなんて余分な家電製品はなく、裸電球が柔らかく灯るのみ。作られた秘湯ではない、本当の秘湯の持つ鄙びた空気感に早くもテンションが上がりっぱなし。
早速浴衣に着替え、お風呂へと向かいます。こちらの浴場は全て川の近くに建っており、宿から一旦外へ出ます。まずは男女別内湯の唐子の湯へ。黒板の壁とすすきが、何とも言えない秋の風情を醸し出します。
中へ入ると、これ以上何も省けないだろうというシンプルさ。いい意味で、本当に質素。この感じは乳頭温泉郷の他の宿にはありません。
お湯は無色透明ながらほんのりと硫黄の香り。すぐ近くの黒湯が白濁した温泉なのを考えると、よくもこんな近くで全く違うお湯が湧くものだと感心してしまいます。
深めの浴槽に静かに入ると、全身を優しく包む柔らかいお湯。すぐにじんわり汗が滲み、成分の濃さが感じられます。
続いて混浴の石の湯と、それに併設される露天風呂へ。味のある佇まいの脱衣所は、男女別に分かれています。
こちらは大きな岩に張り付くように浴槽が設えられており、脱衣所から浴槽へと下る階段の下あたりから温泉がこんこんと湧き出し、浴槽へと掛け流されています。
こちらのお湯も無色透明ながらほんのりとした香り。湧き出し口には溶き卵のような大きな湯の花がたっぷりと見えていたので、こちらの方が成分が濃いのかもしれません。
唐子の湯に負けず劣らず質素な造りの浴場。浴槽の底は木の板でできており、それを押さえるためか、何故かコンクリのブロックや漬物石が鎮座。
正直、今まで訪れた乳頭温泉郷の宿の中でもこの宿のテイストは初めて。もし僕が初めて訪れた秘湯がここならば、秘湯の世界へとはまることはなかったかもしれません。
というのも、これほどまで必要十分、手の掛けられていない秘湯がここが初めてだったから。それは決して悪い意味ではなく、むしろいい意味であるということはご理解いただきたいのですが、本当に必要十分、ただそれだけ。
普通なら河原のごろごろした石を持って来そうなところを、ブロックと漬物石って。秘湯らしい「演出」というものが一切考えられていないことが伝わってくるかのよう。
きっと、秘湯慣れしていなければ、秘湯の持つイメージとは離れた単なる鄙びた宿に思えてしまうでしょう。実際、この日泊まっていた団体さんもそんなことを言っていた方が居ましたし。
それでも、数か所か秘湯と言われる宿に泊まり、その風情に慣れてくるとこの手の掛けなさはまた新鮮なもの。それこそ、演出という作業で作られた部分の無い、本当の秘湯、湯治場と感じられます。
うぅん、渋い、渋すぎる。秘湯らしい風情に溢れた秘湯宿もいいですが、本当に湯浴みを愉しむために存在する、そんな雰囲気のこの宿、堪りません。
今までに出会ったことのない渋い浴場に思わず色々と書いてしまいましたが、石の湯は唐子の湯よりも少し熱めで、ちょっと浸かっていると体の芯から温まってきます。これは長湯厳禁、逆上せる前に露天へと出てみることにします。
露天風呂は浴場横の大きな浴槽と、川沿いの小さな浴槽の2つ。大きなほうはちょうど良い温度で、さらりとさっぱりした浴感のお湯が注がれています。
川沿いの小さな方は温度は少し低めで、深さも選べるので、川の風を楽しみながら長湯するにはピッタリ。
この宿には4つの源泉があり、それぞれ効能が違うとのこと。実際、これまで入ったもの全て浴感や温度が違い、好みの場所を見つけて入る楽しさを味わえます。
今回は全ての浴槽が透明な状態でしたが、気温や天候により少し濁ることもあるよう。湧いたままの自然な状態の温泉を、鄙びた浴場でひたすら味わう。これほどお湯に集中できる環境も、中々無いかもしれません。
この宿は自家発電のため、浴場は22時で消灯とのこと。夜はもっぱらお酒と本になりそうなので、今のうちにとお風呂を満喫していたら、予想以上に体が茹ってしまっていました。
こちらのお湯は「山の薬湯」とも言われるそうで、見た目とは裏腹に体の芯まで浸みてくる感じ。本当に長湯は危険そうです。
そんな茹った体に美味しい、きりりと冷えた辛口のビール。ごくごくと飲み下せば、喉を刺す心地よい刺激。し、あ、わ、せ。ただただその一言に尽きます。
この後再び温泉を楽しみ、17時半に少し早目の晩ごはん。テーブルにはたくさんの山の幸が並びます。
岩魚にわらび、きのこおろし、みずとろろなど、僕の好物のオンパレード。どれも手作り、温かさ溢れる美味しさで、もうお酒が進まない訳はありません。
続いて運ばれてきたアツアツお鍋。中身はもちろんそう、きりたんぽ鍋!丁度よい塩梅とだしが効いたつゆが染みわたったきりたんぽは、説明不要の美味しさ。心の奥まで温まる、しみじみとした秋田のおもてなし。
続いて運ばれてきた稲庭うどん。お酒を飲んでいる最中には嬉しい、つるつるとした旨さです。
このほかに枝豆やフルーツも付き、ボリューム満点。女将さんは食べきらなければなんでも部屋へ持ち帰ってもいいと言ってくれましたが、それぞれ美味しいので全部平らげてしまいました。
〆はもちろん、つやつやのあきたこまちと漬物。いぶりがっこが美味しいのはもちろんですが、お手製の浅漬けもまた美味。
こちらの地方では塩だけではなく砂糖も加えて漬けるとのことで、その砂糖が心地よい甘さとまるみを出し、今まで食べたことのない味わい。
これまで宿の鄙び具合を見ていたので、はっきり言って食事に関してはあまり期待していませんでしたが、予想に反して大満足の内容でした。
品数やボリュームもそうですが、なによりも手作りならではの温かみのある素朴な美味しさ。秋田の山奥で食べられてきた味をそのまま愉しんでいるようで、気持ちまですっかり温めてくれました。
旨い料理と酒に舌鼓を打ち、部屋へと戻ります。夕食後、露天はしばらく女性専用の時間帯。コンクリに切られただけの唐子の湯でしみじみと湯を味わい、部屋でのお酒タイム開始。
今宵の供に選んだのは、これまで何度も飲んだ大仙市は鈴木酒造店の秀よしひやおろし純米酒。秀よし自体はすっきりとした飲み口のお酒ですが、熟成されたひやおろしはまた違った雰囲気で、コクと旨味がましまろやかな飲み口。それでいて後味はすっきりとしているので、食後のお酒にピッタリ。
本とお酒をのんびり楽しみ、消灯前にもう一度露天に浸かり今日のお風呂は終了。あとは眠くなるまで、本を片手にちびちびやるのみ。この旅最後の夜は、これ以上ないほどに静かに、シンプルに過ぎてゆくのでした。
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