大沢温泉から長閑な道を歩くこと45分、鉛温泉『藤三旅館』に到着。この旅で真っ先に宿泊を決めた宿です。
こちらには5年前の冬に旅館部でお世話になったことがあり、昭和16年築の総けやき造り木造3階建ての本館はあまりにも重厚で、感動しきりであったことを今でも鮮明に覚えています。
今回は湯治部での宿泊。唐破風が立派な旅館部の玄関からではなく、湯治部らしい鄙びた玄関から入館します。なんでしょうか、今の自分にはこちらの方が何となくしっくり来る。この5年で秘湯にどっぷりとのめりこんでしまったことを痛感します。
ガラス戸をガラガラと開けると、若いお兄さんが出迎えてくれました。右手にある帳場の中で腰掛けてチェックイン。湯治部での宿泊についての説明を一通り受けます。宿の方の丁寧、親切さは5年前と一緒。湯治部でもそれは全く変わらないことに嬉しくなります。
自分の靴を持って廊下を移動するという初の経験をしつつ部屋へと向かいます。通されたのは明るい6畳間。以前湯治部を探検した際には鍵が付いてなかった記憶がありましたが、今回は鍵付きのお部屋を用意してくれました。短期滞在のひとり旅、そのあたりを配慮してくれたのでしょうか。とても嬉しい心配りです。
トイレ、洗面所は室内にありませんが、ポットやお茶、タオルや浴衣など必要なものは全て揃っているので、快適さは旅館部と全く変わりません。もちろん、プランによってはアメニティー類が別料金のもっとお安いものもあるので、滞在スタイルによって使い分けることができます。
荷物を降ろして浴衣に着替え、早速温泉へ入ることに。藤三旅館内には5箇所の浴場があるので、どれから入るか目移りしてしまいます。
藤三旅館といえばあれ、というメインディッシュは後にとっておき、明るいうちに桂の湯の露天に向かいます。
こちらの露天風呂はご覧の通り豊沢川のすぐ側に作られており、開放的な雰囲気の中、せせらぎの音と緑を楽しみながら入浴することができます。
そして写真の右手から下へと降りる細い階段を下りると、小さいながら更に川に接近して作られた浴槽があり、もうそこは川の一部ではないかというロケーション。
5年前に訪れたときはうっすら雪化粧をしていましたが、藤が咲くこの若々しい緑の眺めもとてもいい。僕の記憶の中で、これ程自然に近い環境にある露天風呂に入ったのはここが最初。
この露天風呂で受けた感動が、後の自然の中の露天風呂好きという僕を作り上げた原点であることは間違いありません。よく温まる肌触りの良いお湯にのんびり浸かり、5年ぶりの出会いをしみじみと噛みしめます。
以前と変わらぬ雰囲気に酔いしれ、少しだけのぼせ気味に。畳の肌触りが心地いい自室へと戻り、苦味が旨いラガーをグイッと喉に通します。窓からは木漏れ日が降り注ぎ、秘湯での午後を柔らかく演出します。
座布団を枕にして体を投げ出す。何気ない動作ですが、洋室フローリングの自宅ではできない至福の瞬間。
僕は和室が本当に好き。さらさらの畳に木の天井。窓の側には陽を透かす白い障子。日本家屋の持つ独特の包容力を感じます。これが年輪を重ねた歴史のある建物だからなおさら。大の字になり、思う存分その包容力に身を任せます。
旅館部に泊まったときもそうなのですが、この旅館で印象に残るのが天井の高さ。廊下もそうなのですが、部屋も一般的なものより天井が高いのです。それ故に、古い建物でありがちな暗さは無く、独特の雰囲気を醸し出しています
心地良い空間の中少しだけまどろみ、再び温泉へ。折角なので館内の色々なところを見てみることに。
湯治部は2階建てと3階建ての建物が中庭を囲むようにして建っており、渡り廊下の窓からは、その渋い佇まいを眺めることができます。西日に照らされる姿は、何となく学校を思わせる雰囲気が。
吹き抜けの高い天井を持つ階段には、古き良き時代の窓ガラスが壁一面にはめ込まれており、その印象をより一層強いものとしています。
続いて売店。お土産品よりも、缶詰や飲料、おつまみなどの生活に必要な品が揃っています。前回訪れた際、ここを初めて見たときのある種のショックは今でも忘れることができません。湯治場と無縁だった僕にとって、旅館の中にこの濃密な生活感が漂うという雰囲気に圧倒されたものでした。
そして、藤三旅館湯治部といえば、この廊下。皆さんやはり記憶に残るようで、数々のブログにその印象が書かれています。学校、病院、刑務所・・・、その感想は人さまざまですが、どれも頷けるものばかり。
そう、この廊下こそが僕の秘湯への入口だったのです。
5年前の初冬、会社の先輩に誘われ、秋田の秘湯の旅へと出ました。その際みんなと合流する前に先輩と前泊したのがこの旅館でした。その時は、じゃらんで安いプランがあり、合流地である盛岡に近いこと、立って入る珍しいお風呂があるらしいこと、そんな理由で予約した記憶があります。
初めて見る木造3階建ての立派な建物、高い天井が印象的な木の温もりを感じる和室、驚くほど深い自噴岩風呂、ビジネスプランなのに思いのほか豪華で美味しい料理、等々。この藤三旅館には初めてがたくさん詰まっていて、いちいち喜んでいたのを覚えています。
そして夜、お風呂の帰りに湯治部を探検してみようと、先輩と2人で歩き始めました。そこで現れたこの廊下。ガラスの無い格子戸の奥からはテレビの音が漏れ、食べ終わったお膳が入口の横に並んでいる。学校のようなコンクリ張りの廊下を音を立てないように静かに進み、暗い階段や調理室を見て回る。
目に入る光景はあまりにも強烈で、自分の知らない世界、見てはいけないものを見てしまったかのように心臓がバクバクいっていたのを今でも鮮明に思い出します。きれいで明るい旅館部のすぐ隣に、まさかこれ程静かで生活感を匂わせる場所がひっそりと佇んでいるなど、想像すらしていませんでしたから。
翌日みんなと合流し、蟹場、大釜、妙の湯に鶴の湯と、怒涛の秘湯ラッシュにすっかり温泉の虜となってしまったのでした。その旅以来すっかり秘湯好きになってしまった僕は、自分なりにいろいろ気になる温泉へと出かけてきました。
それぞれ良い宿ばかりで、どれも印象に残るものばかり。それでもなお、この藤三旅館湯治部で感じた何とも言えないショック、背筋がゾクゾクするような感覚は薄れず、いつしかあそこに泊まって確かめてみたいと、日に日に強く想うようになりました。
そんな秘湯への第一歩を踏み出した、原点とも言える旅のスタート地点であった藤三旅館。5年間で色々な温泉を訪れ、その経験を持っての再訪ですが、やっぱりここは、ゾクゾクする。
そう、あの日感じたドキドキは、知らない世界に対する怖れではなく、衝撃的な出会いによるもの。見てはいけないものと感じたものは、まさにその通り。一度見てしまったらもう後戻りできない、秘湯という魔界への入口。
間違いなくあの瞬間、この場所で、僕のスイッチが入った。ここへ立ってみて、ハッキリとそう認識しました。その証拠に、あれだけドキドキし、見てはいけないものと感じたはずなのに、その感情は決して負のものでは無かったのです。
この空気感には賛否両論あるようですが、僕は声を大にして言いたい。僕は、ここが好きだ!
そんな初恋の場所である藤三旅館には、日本でもここだけという、不思議な浴場があります。そのお風呂との逢瀬を楽しみに、この廊下を静かに歩くのでした。
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