駅から路線バスで約25分、大沢温泉バス停で下車。相田みつを筆の「ゆ」の文字が目立つ大きな看板の横を下ると、目の前に木造の渋い建物が見えてきます。
『大沢温泉』には、ちょっとお高めの山水閣、茅葺屋根や味のある木造建築が特徴の菊水館、そしてこの鄙びた自炊部からなり、自分の好みに合わせてそれぞれの宿泊スタイルを選ぶことができます。
立ち寄り入浴はこの自炊部で受付。重厚な玄関を入ると、まるで映画のセットのような空間が広がり、早くもその空気感に圧倒されます。
受付左手には売店が広がり、お土産の他缶詰や地元の食材、お漬物、お惣菜など湯治に必要なあれこれが売られています。鈍い光を映す黒い天井、たばこやフジカラーの懐かしい文字。まさに昭和にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。
お目当ての露天、大沢の湯は掃除中で13時から営業とのこと。まずは山水閣にある豊沢の湯に入ることにします。豊沢の湯は窓が大きく取られた半露天で、冬季以外は窓ガラスが外されて開放的な景色を楽しむことができます。
中へ入ってまず目に飛び込むのは、眩いばかりの若葉の青さ。薄暗い大浴場越しに見る豊沢川と木々は、まるで額に入った1枚の絵のよう。その生きた絵画からは川の清純な空気が流れ込み、お湯に火照った体を心地良く癒してくれます。
普段露天大好きな僕は、あまり室内の大浴場は好んで入らないのですが、これほど川を借景とした美しい演出をされると、思わず溜息が出てしまいます。ワイルドな秘湯露天とはまた違う魅力を持つ、印象深いお風呂です。
お湯は無色透明のアルカリ性単純泉。肌への当たりも優しいので、出たり入ったりのんびり過ごすことができます。
温泉での入浴は意外と体力を使うもの。気が付けば時刻はお昼時、僕のお腹時計もお昼を知らせています。今回は自炊部にある食堂、やはぎでお昼を頂くことに。
まずは冷たいビールでクールダウンし、注文の品をのんびり待ちます。店内にはセルフサービスのお茶と共に、カクテキやキャベツのお漬物が置いてあり、自由に食べることができます。
それらをビールやお茶のお供にチビチビとつまんでいると、注文した海老おろしそばが到着。ここのおそばは更科、田舎、韃靼などから選ぶことができ、全て十割とのこと。僕は好みの田舎そばにしてみました。
十割そばにありがちな細切れ状態やバサバサ感は全く無く、思った以上のコシ、歯ごたえ、喉越し。田舎そばならではの力強さをしっかりと楽しめます。トッピングの海老の天ぷらやおろしもたっぷり載せられており、食べ応え十分のそばと一緒に楽しめば、期待以上の満足感。
こちらのお店は朝、昼、晩と営業しているため、自炊部で心配になりがちな食事もバッチリ。メニューも郷土色豊かなものから、オムライスや支那そばなど懐かしいものまでバリエーション豊か。
お値段も手軽なものが多く、これなら1週間程度の湯治ならここだけで済ませても全く不便は無さそう。宿泊費の抑えられる自炊部に泊まり、毎食その時に食べたいものを食べる。そんな湯治もいいかもしれませんね。
美味しいおそばに舌鼓を打ち、お腹を落ち着けたところでいよいよ露天風呂へ。自炊部の外れにある混浴露天、大沢の湯を目指して歩きます。
こちらの自炊部は、廊下と部屋の仕切りは障子のみという、至ってシンプルな日本的造り。プライバシーや貴重品の管理などが気になる方には難しいかもしれませんが、今の僕には「泊まってみたい!」という感想しか生まれません。
本当にこの数年間のうち、一体自分に何が起きたのか。あまりの自分の変貌ぶりに我ながら驚くときがあります。
少なくとも数年前まで、自分自身がこのような世界へと足を踏み入れることは一生無いと思っていました。いや、ただこの世界感を知らなかっただけだったのです。そんなきっかけとなる出会いについては後ほどに。
大沢温泉の顔とも言える大沢の湯。川沿いに造られた浴槽は大きく、温度や深さが場所によって違うので、自分の好みのところを見つけてのんびりすることができます。
豊沢川の対岸には、茅葺屋根が特徴の菊水館も見え、まるで箱庭の中入浴しているかのよう。夏油温泉の持つ野性的な雰囲気とはまた違う、昔話の世界を具現化したようなこの空気感もまた良い。
一口に温泉といっても、十人十色、全てが違う表情を持つ。一度温泉巡りにハマってしまうと、その底なし沼から出ることは不可能になります。
雰囲気満点の露天風呂を楽しみ、帳場の横にある待合室で休憩を。壁には歴史を感じさせる家財道具がずらっと並ぶ他、通称馬面電車と呼ばれた花巻電鉄の在りし日の姿も展示されています。
これぞ山の湯治場、といった雰囲気を凝縮したかのような大沢温泉。ワイルドで質素な秘湯をイメージして行くとちょっと違うと感じるでしょうが、この濃密な空気に触れると忘れることはできません。次回は是非泊まりで。そう思いつつ大沢温泉を後にし、一路今夜の宿へと歩を進めます。
大沢温泉バス停から路線バスに乗ればあっという間に着きますが、距離にしてたかだか4kmちょっと。折角なので地元の景色を眺めながらのんびり歩くことにします。
照りつける日差しの中てくてく歩いていると早速ご褒美が。豊沢川の作る谷間に、たくさんの藤が咲いていました。
藤といえば藤棚で育てられているもの、そんなイメージしか無い僕にとって自生する藤の木の姿はとても新鮮で、その勢いの良さにびっくりしてしまいました。低く這うように育てられてる藤棚と違い、自然の藤は天へと力強く立つ恐竜のような姿に、薄紫の美しい花を枝もたわわに身に着けていました。
山側へふと目をやれば、田植えしたての田んぼが。まだ若いしなやかな稲の葉を風がそっと撫でてゆきます。この何気なくも美しい、至って普通の田園風景。僕はこんな景色がとても好き。
ただ、この何気ない、当たり前の風景が当たり前ではなくなってしまう。時期的、場所的にどうしても考えてしまいます。それがもし自分の故郷だったら・・・。今回大勢の方々が受けられた心の傷は、想像することすら到底できません。
こんな田園風景が数々の災禍を経てもなお、日本に数え切れないほどあり続ける。どうか、今回の被災地が少しでも早くこの当たり前を取り戻せますように。今ある当たり前が壊れてしまいませんように。
岩手花巻の自然に抱かれ、そう強く願うのでした。願うことくらいしかできない自分に情けなくなりつつも、震災の影をあちこちで感じさせる東北の地では、そう思わざるを得ませんでした。
喜び、切なさ、哀悼・・・、様々な感情が入れ替わり立ち代わり浮かぶ中、長閑な道をどんどん進みます。目指すは鉛温泉藤三旅館。ある意味僕の人生を変えた、節目の思い出の場所。5年振りの再会はもうすぐです。
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