藤三旅館といえばこれ、白猿の湯。日本一深い自噴天然岩風呂です。まずその浴場自体の造りが不思議なもので、2ヶ所ある出入口の戸を開けると、遥か下に小判型の湯船が見えます。つまり、浴槽は地下1階に位置しているということ。
細長い階段を下りて浴衣を脱ぎ、お湯を鏡のように静かに湛える湯船にそっと入ります。湯船の周囲には細い段差があるので、それをステップ代わりにして深い深い湯船の底へと進みます。
深さは約1.25m、僕の身長で丁度首の下まで浸かる位。周囲の段差にお尻をちょこんと乗せ、立ったままお湯に全身を委ねれば、ここでしか味わえない不思議な浴感を体感することができます。
全身を包むお湯の浮力、プールに入っているかのような心地良い足への水圧、全身を伸ばして入ることにより、より活発になる血液循環。
温度は決して高い方でなく、心臓もバクバクするわけではないのですが、静かにじっくり入っていると、驚くほどの汗が出てきます。これこそが、立って入るというこのお風呂の真骨頂。こんな浴感、他にはありません。
包容力たっぷりの不思議な湯船に身を任せ、ふと上を見上げればひたすら高い天井。1階の出入口より更に高い吹き抜けの天井からは、優しい光が降り注ぎ浴場を淡く照らします。
周囲を囲む木枠の窓や筆文字の効能書きが、より一層浴場の雰囲気を濃密なものとし、それらを眺めながら入るこの湯船は、まるで地の底にでもあるかのような錯覚を覚えます。この空気感は、是非現地で味わって頂きたい。僕のイチオシのお風呂です。
地底へ吸い込まれてゆくかのような不思議な感覚に酔いしれ、出たり入ったりを何度も繰り返しました。
白猿の湯を囲む廊下には、何とも味のある古い木のベンチが。のぼせ気味の体を落ち着かせ、汗が引くまでこのレトロな空間を愉しむことにします。この旅館は、どこを切り取っても本当に画になる。僕にとってのひとつの理想とも言える旅館。
部屋に戻り、日が翳りつつある窓を眺めながらのんびり過ごしていると夕食の時間に。自炊部でも旅館部と同じ夕食を頼むことができ、もちろん配膳もしてくれます。
ごま豆腐に、イカや貝などの酢味噌、サーモンのマリネにじゅんさい入りところてん等、様々な小鉢が並びます。
メインは豚の豆乳しゃぶしゃぶ。豚の旨味が濃く、それでいて固くない丁度良い歯ごたえの豚を豆乳にくぐらせれば、より一層まろやかさが増し美味。
小さい頃から、本当に旅館のこの手のお肉料理は好きでなかったのですが、最近はどこへ行ってもいい意味で裏切られてばかり。それだけ旅館の方が美味しいものを提供しようと頑張ってくれているということなのでしょう。
そのほかにも焼き魚やお刺身などの定番料理もあり、大満足の夕食。前回宿泊したときも思いましたが、派手さは無いがどれもしっかり美味しい。ひとつひとつ手間を掛けて作られていることが伝わってくるようなお料理です。
そんな心温まるような献立に合わせるのは、もちろん地酒。本の世界から飛び出したようなラベルが印象的な、銀河鉄道の夜純米吟醸酒。
盛岡の桜顔酒造が、岩手のお米、南部杜氏と岩手にこだわって造ったお酒です。フルーティーでありながらすっきりとした喉越しと後味を持つ、僕好みのお酒。
湯治部は食料品持ち込み自由なので、このように自分で選んだ好みのお酒を、食事と一緒に堂々と楽しめるのが嬉しいところ。美味しい料理と美味しいお酒をのんびりじっくり楽しみました。
食後は湯治部らしく、自分でお膳を下げます。部屋の出入口の横に置いておけば、後で下げに来てくれます。そんな体験も湯治部ならでは。旅館であって旅館ではない、初めての不思議な感覚を随所に感じつつ楽しむ、これこそがここでの過ごし方。
夕食時に開けた銀河鉄道の夜を片手に、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を読む。岩手の夜を彩るこの上ない役者たち。大人になってから読むこの物語は、これほど切なくて綺麗な物語だとは思ってもみませんでした。このお話は、この旅の想い出と共に僕の心に刻み込まれ、忘れることは無いでしょう。
そして岩手の夜を彩るもう一人の主役、温泉。本とお酒に飽きたら温泉へ、そんな贅沢な過ごし方こそ、秘湯の旅の醍醐味。渋い建具や内装が迎えてくれる、湯治部の浴場河鹿の湯へ向かいます。
中に入ればシンプルなタイル張りの浴槽が。風情たっぷりのお風呂もいいですが、静かな夜にはこんなシンプルなお風呂もまた良い。純粋にお湯を愉しむ、湯治部らしい潔さを見た気がします。
その後部屋とお風呂を何度も往復。旅館部のお風呂へも行ってみました。前回宿泊したときは2階建ての古い浴室棟があり、白糸の湯と龍宮の湯という、どちらもレトロなタイルが味わい深い浴場がありました。
その印象がかなり強く残っており、喜び勇んで旅館部へ出かけていったところ、なんと面影ひとつ無く改築されてしまっていました。今の白糸の湯と銀の湯は、石張りで雰囲気のある、所謂今風の温泉といったもの。脱衣場もとても綺麗で、快適であることは間違いありません。
予備知識が全く無い状態で突きつけられた現実に、しばし呆然としてしまいました。あの古いタイル張りのお風呂が・・・。そう思うとなんだか急に切なくなってきてしまいました。
よくよく見れば旅館部も改装されていたようで、いい意味で「中途半端に田舎臭かった」部分も直されており、一軒宿にしてはおしゃれで綺麗な印象に。
実際浴場も相当老朽化していたようですし、建物も手直ししてこそ長持ちさせることができます。そして何より、お客さんが来てくれなければ、旅館は営業を続けていけません。
ですから、このリニューアルは正解であるような気がします。今の設備なら、秘湯初心者や女性でも間違い無く安心して泊まりに来られることでしょう。実際、多くの方が宿泊し賑わっていました。
5年前の印象があまりにも強く、それ以来焦がれ続けてきた藤三旅館。この変化にちょっとした悲しさを感じるのは、僕が勝手に変わらぬ姿を求めていただけ。本来なら歓迎されるべきことなのでしょう。
それでも、その切なさを拭い去ることのできなかった僕は、そそくさと湯治部へと戻り、白猿の湯で心を落ち着かせるのでした。
僕の居場所は旅館部には無い。この5年間で変わったのは、旅館部だけでなく、僕自身なのかもしれません。あのときには感じなかった癒しを、いま湯治部に感じる。自分が相当な深みへと嵌りつつあることを、否が応でも実感させられました。
当時と変わらないものがあり、当時と変わったものがある。そんな複雑な思いを噛みしめつつ、本とお酒とお風呂を相棒に、5年振りの藤三旅館で過ごす夜を愉しむのでした。
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