乳頭温泉バス停から車で走ること10分足らず、秘湯黒湯温泉の入口である駐車場に到着。駐車場からは細い下り坂をぐんぐん降りていきます。白とオレンジに彩られた小径と番頭さんの背中に、まだ見ぬ黒湯温泉への期待がどんどん膨らんでいきます。
滑らないように気を付けながら番頭さんの後を付いていくと、茅葺の建物が突如姿を現しました。雪がより印象を強いものとし、まるで昔話の舞台のよう。まさにここだけ江戸時代から時が止まってしまったかのような、現世とは思えない光景です。
次第に見えてくる黒湯温泉の建物群の裏手をぐるりと回り込みます。駐車場までは舗装され、たくさんの車が停まるという現代の装いですが、一歩黒湯へのアプローチへと踏み入れれば、一気に時代の底へと落ちて行くかのような感覚を覚えます。
駐車場からここまでの通路はとても大切な役割を持っている、そう感じました。鶴の湯は目の前まで車で乗り入れられるため、車を降りればいきなり江戸時代の宿場のような雰囲気が広がっています。
それに対して黒湯は、文明の利器を捨て最後の数百メートルは自分の足でしか辿り着けない。それがより現世との隔絶を印象強くします。一気に全貌を明かさず、焦らすかのように姿を見せ始める、そんなロケーションに思い切り入り込んでしまいました。
高鳴る胸に足取りも軽く、とうとう今夜の宿、『黒湯温泉』に到着。左手に写る事務所でチェックインを行います。ここで夕朝食の時間やお風呂の掃除時間などの説明を受け、先程の番頭さんに部屋まで案内してもらいます。
黒湯温泉には旅館部と自炊部があり、今回は旅館部は満室。自炊部は二階建ての自炊棟が1棟と、茅葺の長屋が2棟の2種類があり、それぞれお値段が異なります。
僕はせっかくなので茅葺の方を予約。予約時に部屋の位置の希望を聞かれましたが、ひとりの為に部屋を割いてくれるだけでありがたいので、特に希望は伝えませんでした。
通されたお部屋はなんと角部屋。湯畑に接した、一番眺めの良いお部屋を用意してくれました。宿の方のご厚意に感謝、感謝です。
室内はシンプルな和室に囲炉裏が切られています。鶴の湯のように火をくべには来ないので、自分で炭を持っていって使用することになりそうです。
ここは自炊棟。もちろん好きなものを好きなように調理して食べることができます。複数人で行く場合は、囲炉裏に赤々とした火を焚き、秋田名物きりたんぽやしょっつる鍋、なんていうのもオツでしょう。
僕もそれをちょっと考えたのですが、電車バス利用のひとり旅では、食材の持ち歩きはちょっときつい。そしてやっぱり、旅先くらいは自分の味以外のものを食べたいし、上げ膳据え膳が一番の贅沢だ!と思い、二食付きにしてもらいました。
食事を付けても旅館部よりは少しお安め。こんな風情ある部屋と景色を満喫できる上にお得とあれば、まさに一石二鳥です。
部屋は三方を窓が占めており、その中でも山側の一番眺めの良い窓からは、まるで絵葉書かのような絶景が広がります。
雪化粧を纏った黒い建物と、荒涼とした河原に低く垂れ込める雲。こんなモノクロームの世界に、彩を添える紅葉した木々。それはまるで、この世界に唯一存在する色彩であるかのよう。時が経つのも忘れ、静が支配するこの景色を、しばらく眺めていました。
ようやく浴衣に着替え、散策と温泉巡りに出掛けることに。自炊部は鍵が掛からないので、事務所に貴重品を預けてから湯巡りすることになります。
まずはお風呂の前にちょっとした探検を。部屋からも見える、黒湯の源泉。岩の間からは絶えず源泉がブクブクと湧き続けています。この源泉をこの旅館が独り占めなのですから、お湯がいいことは間違いありません。
湯畑から山の方へと目をやれば、立ち上る湯煙と紅葉の中に、別荘と呼ばれる茅葺の離れが佇んでいます。
温泉が行楽として定着した近代以前には、このような温泉場の風景が、いたるところにあったのでしょう。辛く長い農作業を終え、農閑期にひたすら歩いて湯治にやってくる。そんな人々も、きっとこれと同じような風景を見ていたに違いありません。
黒湯温泉には3箇所の浴場があり、それぞれ異なる雰囲気の中で湯浴みを楽しむことができます。先程の湯畑の隣に建つ男女別の湯屋は、部屋から一番近いので後で入ることにし、まずは黒湯で一番有名な混浴露天風呂へ向かうこととします。
露天へ向かう道の両側には、たくさんの紅葉が植えられており、1日で積もったとは思えない量の雪をかぶっていました。間近で見れば、純白の雪と、赤から黄への様々なグラデーションを造る紅葉との対比が、より一層美しいものとなります。
お風呂は残念ながら撮影禁止。宿の方にお願いして写させていただいても良かったのですが、いつ行っても人がいることが多かったため、今回は撮影しませんでした。
記録することに神経を使うより、頭を無にしてお湯に浸かり、五感全体を以って黒湯の素晴らしさを記憶すること、それが今一番すべきこと。
お湯は硫黄の香りと湯の花が舞うにごり湯で、酸性が弱いため肌への当たりはとても柔らか。温度も丁度良く、出たり入ったり、肩まで浸かったり半身浴したり、好きな体勢で好きなだけお湯と景色を堪能することができます。
そして一番の喜びは、冬季休業の黒湯では滅多に入ることのできないであろう、雪見風呂。それもただの雪見風呂ではなく、紅葉と雪というまさに奇跡の組み合わせの中で入る、特別な露天風呂。
息を大きく吸い込めば、硫黄の香だけでなく山の霊気までもが身体に取り入れられるかのよう。この幸運に感謝をしながら、心行くまで湯浴みを満喫しました。
絶景の広がる混浴露天でしっかり温まり、旅館部の内湯へ向かいます。このお風呂にはシャンプーとボディーソープが備え付けられており、さら湯も引かれているので、秘湯にいながら身体を流すことができます。昨晩は頭を流せなかったので、ここですっきりし、部屋へと戻ります。
茅葺の屋根からは立派なつららがたくさん下がり、曇天の鈍い光を反射します。日中でもつららが溶けない気温。それほどの寒さなので、入浴後はすぐに石油ストーブの前に陣取り、じっくり本を読みながらのんびりと過ごします。
本に飽きたら温泉へ。これ程の贅沢は他にあるでしょうか。今度は部屋の近くの男女別湯屋へと向かいます。ここには内湯と露天がそれぞれ設けられ、露天からは山々の紅葉と別荘、川といった先程の美しい景色を楽しむことができます。
山間の日暮は早く、すでに空は光を失い始めました。少し熱めの露天に浸かりながら、色彩が闇に溶けゆく様をひたすら眺める。そこにあるのは、身も心も温めてくれるお湯と、それが掛け流される音だけ。色彩ばかりか、時間の流れまでもが失われる、そんな幻想を抱かせる至福の瞬間。
辺りもすっかり暗くなった頃、夕食の時間がやってきました。旅館部2階にある広間へ向かう途中には、黒湯温泉の立派な文字を浮かび上がらせる提灯が。ここはどこを切り取っても画になる、そんな空気が漂っています。
広間にはすでに多くの方が集まっていました。食卓には、山の夜を彩る品々がずらりと並んでいます。岩魚の塩焼きや煮物、山菜などのほか、グツグツ煮えるお鍋もあり、思ったよりも豪華。
席に着くと温かいうどんが運ばれ、冷えた身体にはうれしいご馳走です。また、塩で頂く天ぷらは、冷めてはいるもののサクッとしており、全く油っぽくなく美味。
予約する前に色々とクチコミを見ていたところ、食事に関してはあまり評判が良くなかったので、ある意味覚悟して来ました。
ですが、たくさんのお膳を少人数で用意するためお料理が冷めてしまっていることは仕方ありませんが、味付けはどれも美味しく、これなら納得、という内容。
むしろ、山菜に偏っていないので、好き嫌いのある人でもこれなら食べられるはず。山奥の秘湯へ来てこの値段でこの内容なら、僕は全く不満はありません。
これだけたくさんのおかずがあれば、やはり欠かせないのが日本酒。秋田の有名な地酒、太平山の純米大吟醸天功を注文。四号瓶で、と言ったら宿の人がえぇ!?というリアクションをしていましたが、気にしない気にしない。これが僕の適量なんですよ~。
今までの一人旅でも広間で食事をすることは多々ありましたが、今回は初めての完全相席型。見知らぬ同士顔を合わせつつ、食べ始めました。
周りはグループばかりなので、もちろん無言は僕一人。そんな中、少し遅れてお向かいにおひとり様が。内心ちょっとホッとしたのは、ここだけのヒミツです。
いつも通りお酒とお料理をひとりじっくり愉しんでいると、なんだか様子が変わってきたことに気が付きました。なにやら、みんな仲間内の枠を超えて話し始めているのです。
と思った瞬間、僕へも話が飛んできました。一人旅と言えどもあまり自分からは話し掛けない僕ですが、話し掛けられることは大歓迎なので、それをきっかけにどんどんおしゃべりを楽しみました。
お向かいの上品な奥様は、還暦の誕生日を記念しての初めての一人旅だそう。子育てから何から一段落し、自分へのご褒美なのだとか。何事も初挑戦するのに遅い、ということはありません。僕もそんな年のとり方をしたい、そう思わされました。
皆さん旅慣れている方で、自宅の場所もまちまち。あそこは良かった、うちの地方はこんなだ、等々話は尽きることなくどんどん盛り上がります。まだまだ若造の僕ですが、皆さんとのお話に加えていただき、本当に嬉しかった。
一人旅をしていても中々味わえない一体感。黒湯の持つ何かが、きっとこの輪を生んだのでしょう。自宅から数百キロと離れた山奥に独りで来ていることを忘れ、いつも以上に美味しいお酒を飲むことができました。
独り酒は酔いやすく、みんなと飲む酒は酔いにくい。頼んだ四号瓶も、少しおすそ分けしたこともありあっという間に無くなりました。本当に良い時間を過ごさせてもらいました。
部屋へと戻る途中、自炊部の調理場へと立ち寄ってみました。ガスコンロや流しが並び、食器棚には先客が残して行ったであろう食器やまだまだ使える調味料がたくさん置かれていました。このようにして、湯治の文化というものが、はるか昔から連綿として続いてきたことでしょう。
ここで、部屋でお酒を飲むためのお猪口を一つお借りしました。お猪口と言っても、パッと見昭和30~40年代ものというような古い味のあるものもあり、どれを借りるか迷ってしまうほど。今まで足を踏み入れたことの無い未知の世界にワクワクしてしまいます。
部屋に戻って少し休憩をし、再びお風呂へ。どのお風呂もそれぞれ違った魅力があるので、どこに入るか良い意味で迷ってしまいます。
お風呂から上がったら本を広げ、日本酒をちびり。部屋でのお供は、田沢湖駅前のお土産屋さん、市で買った、福乃友純米原酒。濃い目の香りと旨味が印象に残る、がっしりとしたお酒。
お酒を含んで本に目を向け、文字と一緒に飲み込む。それを飽きるまで続け、飽きたら温泉へ。そしてまたそれの繰り返し。
一体どれほどの時間、繰り返していたことでしょう。何もしないという贅沢をもっと、もっと楽しんでいたかったのですが、翌朝の気持ちの良い朝風呂に備えて早めの就寝。
2/3ほど残ったお酒は、洗ったペットボトルに詰め替えて保存。こうすれば軽くなるし、空気が少ない分酸化しにくく、車内でもお猪口が無くても飲みやすいという一石三鳥の便利ワザ。
温泉で癒され、人との繋がりでまた癒され、身も心もすっかりポカポカになった、黒湯の夜。昨晩以上に静けさが包む離れで、静かな眠りへと落ちて行きました。
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