早々にこの宿の持つ独特な空気感に圧倒されつつも、浴衣に着替えて瀬見のお湯を楽しむことに。といってもすぐには浴場は目指さず、僕がこの宿に来たいと強く思わせるひとつのきっかけとなった、あの場所を見てからお風呂へと向かいます。
鈍く渋い光沢を放つ木に囲まれた館内を進み、本館一階へ。階段を下りると、立派な松の枝並が表現された障子が現れ、一気にこの宿の持つ特異さに引き込まれます。
玄関の脇には、扇を模した中に達筆な喜至楼の文字。
その向かいには、ひさごの中に大黒様と恵比寿様が。
上り框のすぐ奥には、どうぞいらっしゃいと言うかのように出迎える女性、
その対面には、またのお越しをと見送る女性の姿。それぞれには鶴と亀があしらわれており、一対で旅館のお出迎えからお見送りまでのおもてなしが表されています。
今一度、この立派な玄関ホールを眺めます。この旅館のこの場所はかなり有名で、僕もだいぶ前にテレビで見てから、ネットなどでも色々と目にしてきました。それでもやはり、自分のこの眼で初めて見たこの光景に、息を呑みます。
この本館は明治元年築、山形県内に現存する最古の温泉旅館建築だそう。これまでも古き良き旅館に泊まる機会はありましたが、ここ喜至楼の持つ独特の世界感は、まさに唯一無二のものでしょう。
鄙びた宿から、文化財のような建築美を誇る宿など、印象的な宿はこれまでもありました。でも、この強烈な印象をもたらすこの建築は、僕には初めての経験。
何というのでしょうか、この宿を建てた方のユーモアとセンス、そしてこれを実現する力、そんな様々なものが詰まっている。この圧倒されるような混沌とした美しさは感じたことがありません。
想像以上の圧力を持つこの宿の空気に押され、お湯に入る前から逆上せ気味。興奮を引きずりつつ、初めての瀬見の湯とのご対面。
このお宿にはいくつかの浴室がありますが、まず向かったのは、別館の3階にあるオランダ風呂。浴槽から浴室の壁まで、レトロな細かいタイルがびっちりと敷き詰められています。
ここの温泉はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉の無色透明のお湯。60℃位の源泉が掛け流されているため、滅菌した沢水を加水して適温にしているそう。丁度窓と窓の間、円柱の下のボウルのような部分から、冷たい水が溢れています。
早速緩やかな曲線に縁どられた湯船に身を沈めます。さらりとしたクセの無い優しいお湯と、肌触りの心地よいタイルの触感に、体の力が抜けてほぐれてゆくのが分かります。にしても熱い。青根といい、台といい、瀬見といい、この旅で選んだ温泉はみんな熱い。夏に相応しいのか否か、滝のように汗が吹き出します。
焦らずとも、二泊三日の間お湯は存分に楽しめる。逆上せる前にと、早めにお風呂から上がります。
体を拭いて汗が落ち着くのを待つ間に、こんなレトロな注意書きを発見。書体から文体から、僕の生まれるよりずいぶん前であることは容易に感じ取れます。一体いつ位に書かれたものなのでしょうか。
浴場を出ると、行きには気が付かなかった温泉分析表が。良い色になったその表の下を見ると、昭和25年に作成されたものだそう。縣、衞、驗といった文字が目をひきます。
この宿の印象的なところは、装飾を始めこのような古いものが「いかにも、どうだ!」と保存されているのではなく、何となく大切に使ってきたらそのまま残っていた、というその雰囲気。宿全体が自然体のレトロなのです。
この宿に到着してから出会ったすべてのものに、身も心も火照りきる夏の瀬見での夕刻前。その昂りを抑える、喉に心地よいドライの刺激。この旅最後の宿泊地にここを選んだ自分を、早くも褒めてやりたい衝動に包まれつつ、ほろ酔い加減を愉しみます。
電気も付けず、弱まりつつある夏の陽射しの移ろいを味わうひととき。エアコンなどはもちろんなく、扇風機の風に吹かれて程よい暑さを楽しみます。
明けた窓からはまだまだ元気な蝉の声。ぼーっとしていると、日に数往復の陸羽東線が、遠くからディーゼルエンジンと軽快なリズムを響かせて通過してゆく。そして、視線の先には立派な鯉の滝登り。何をしていなくとも過ごせてしまう。なんと贅沢な時間なのでしょうか。
訪れたことも無いのに連泊を切に願うほど、訪れてみたかった喜至楼。これからの時間が豊かなものになる予感をひしひしと感じ、この旅最後の幸福な時間を過ごす決意を固めるのでした。
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