名古屋から2泊3日を掛けて北海道を目指す船旅も、残すところあと数時間。この日も早めに目覚め、船上での御来光を待ちわびます。程なくして顔を出した、眩しい朝日。雲ひとつない空と穏やかな海を染めあげる輝きを、目を細めつつ全身で受け取ります。
船は現在青森沖。そうか、もうこんなところまで来てしまったのか。終着である苫小牧という文字が見えることが、嬉しくもあり寂しくもあり。残された船での時間を、ゆったりと存分に楽しむこととします。
明けゆく空と海を愛でつつ朝風呂を味わい、まだ人の少ないパブリックスペースへ。窓から溢れる朝日が船内を満たし、船旅のフィナーレの始まりを飾るかのよう。
眩い光に包まれた一画に腰を下ろし、ゆったりと眺める朝日。ずっとこんな時間が続けば。そんな気持ちが生まれるときは、本当に良い旅ができているとき。
朝日にすっかり目覚めたところで、昨日買っておいたおにぎりとお味噌汁で朝食を。パブリックスペースでのカップ麺は禁止ですが、給湯器があるのでお味噌汁やスープが飲めるのが嬉しいところ。
大海原を眺めつつおにぎりを齧り、熱々のお味噌汁をひと口。シンプルだけれどこの上ない、日本人で良かったと思える朝ごはん。移動中という事を忘れさせるこの自由度は、船ならではの贅沢さ。
太陽はすっかり昇りきり、抜けるような青空に。空と海の青さを感じつつ、海風に吹かれて飲むコーヒーはまた格別。この環境全てが僕の心を漂白してくれるかのよう。
海は凪いで鏡のように太陽を映し、この航海で一番の穏やかさ。ゆらゆらと煌めく光を、いつまでもいつまでもこうして浴びていたい。
船尾に移動し眺めれば、どこまでも広がる穏やかな海と、そこにくっきりのびる航跡が。やっぱり船にして良かった。こんなに味わい深い旅は、久しぶり。思い残すことの無いよう、この幸せを余すことなく噛み締めます。
今日も開かれた入港前のミニコンサートでギターの音色を楽しみ、寝台に戻り荷造りを。広げた荷物をリュックへと詰めるこの瞬間、ふと切なさがこみ上げる。どうやら僕は、すっかり太平洋フェリーの大ファンになってしまったらしい。
乗り物から降りるというよりも、好きな宿を発つときのような不思議な感覚。荷造りを終えて一抹の寂しさを抱えつつ、デッキへと向かいます。
かなたには、霞んで見える樽前山と苫小牧の街。あぁ、この巨大な乗り物は、本当に自走して北の大地まで来てしまったんだ。人間の生み出した移動への欲求と、それを叶えてしまう技術。だから乗り物好きはやめられない。移動手段を移動手段としてだけ見るのは、あまりにももったいない。交通とは、人の歴史と寄り添う浪漫そのもの。
どんどんと大きさを増す、北の大地北海道。名古屋から40時間の航海を経て、太平洋フェリーきそはいよいよ苫小牧港へ。
岸壁では、太陽輝く商船三井のさんふらわあだいせつがお出迎え。大洗を発着するこの航路は、僕の長距離フェリーの原点ともいえるもの。東日本フェリーに商船三井、どれも揃っていい思い出ばかり。僕が船旅を欲するのも、無理がない。だって、輝かしい記憶に満ちているのだから。
そんな記憶にまた新たな輝きをくれた太平洋フェリーとも、もうまもなくお別れのとき。船は巨体に似合わずゆっくり、丁寧に岸壁へと近付きます。
もうすぐ6年ぶりの北海道に上陸。それなのに、何でこうも切ないのだろう。恋をした。間違いなく、僕は船に恋をした。ずっと憧れ続けた船旅は、十数年の時を経て憧れから確信へと姿を変えた。僕は船が好きだ。海が好きだ。そしてやっぱり、旅が好きだ。
敢えて時間を掛けて移動するという、時間的贅沢。巨大なスペースを活かし、窮屈さを微塵も感じさせない空間的贅沢。そして、航海中ひたすら目にする空と海という、自然的贅沢。これらを兼ね備えるのは、船しかない。
人々がいつかはと憧れる船旅は、あるいは旅の原点への回帰なのかもしれない。船、鉄道、バス、新幹線、そして飛行機。人が手に入れた交通手段は、順を追うごとに速さを獲得し、反比例して自由度は手放した。つまり、速さすら求めなければ、自由は手に入る。それこそが、船旅そのもの。
だめだ、離れがたい。サラリーマンとして働く身、こんなまとまった時間を取る機会はそうはない。そのことを感じていたからこそ、無意識に船旅を封印していたのかもしれない。
そして今、解き放たれたこの欲求。僕はそこに確かな希望を見た。愛する鉄道が手放してしまったものが、ここには在り続けていてくれた。そのことを身をもって体験できる僕は、幸せ者に違いない。
また乗ろう、絶対に。知ってしまった悦びを、簡単に忘れることなどできはしない。大海原のように広く深い感動をくれた太平洋フェリーとの別れに、切なさと幸福感で押し潰されそうになるのでした。
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